786) 人間の分際
曽野綾子さんの本はまだ読んだことがなかった。
たまたま『人間の分際』という新書本が目に付いて買った。
「子供の分際で」「学生の分際で」と昔はよく使われたが
最近はあまり聞かない分際という言葉に惹かれたのである。
中味は知らなかったのだが、同感できる文章が随所にある。
そんな文章の一部を、転記させてもらいたい。
〇当たり前のことをするのを、人間の分際というのである。分際とは「身の程」ということだ。財産でも才能でも、自分に与えられた量や質の限度を知りなさいということなのだ。
〇ほとんどすべてのことに、人には努力でなしうる限度がある。青年は「大志を抱く」のもいいが、「抱かない」のも賢さなのだ。
〇蛇やタヌキでも、恐らくねぐらの穴の寸法は、自分の体に合ったものがいいのだろう。大きすぎても小さすぎても、不安や不便を感じる。この「身の丈に合った暮らし方」をするということが、実は最大のぜいたくで、それを私たちは分際というのであり、それを知るにはやはりいささかの才能が要る。分際以上でも以下でも、人間はほんとうには幸福になれないのだ。
〇「今日、答えを出さなくて、いいのよ。答えを引き延ばす、っていうことだって偉大な知恵なんだから。私なんか長い間、その手でどうやらその場しのぎをやってきたんだわ」「そうですね。或る朝、突然に、ものの見方が変わっている、ってことはありますね」
〇闇がなければ、光がわからない。人生も、それと同じかもしれません。幸福というものは、なかなか実態がわからないけれど、不幸がわかると、幸福がわかるでしょう。だから不幸というものも、決して悪いものではないんですね。荒っぽい言い方ですが、幸福を感じる能力は、不幸の中でしか養われない。運命や絶望をしっかりと見据えないと、希望というものの本質も輝きもわからないのだろうと思います。
〇他者がどれほど自分を育てる役割をするか。私たちは一人では決して自分をこれだけにもすることはできなかったのである。拒否され、嫌われ、積極的に意地悪をされ、時に愛され、救われ、ホメられ、その中で、私たちはどうにかこうにか一人の自分を創り上げて来たのである。
〇私たちはどんな人からも学び得る。学問も何もない人の一言が、哲学者の言葉よりも胸にこたえることがある。宝石はどこに落ちているかわからない。だから、私たちは、常に教えられるために心を開いていなければならないのである。(2015.08.19)