2010-04-12
156)井上ひさしさん 2010.4.12
井上ひさしさんには以前から関心をよせていた。同窓生と言っていいのだろうか、井上さんと同じ修道会に私もお世話になったからである。
私は生まれ故郷鹿児島のラ・サール高校で3年間を学んだ。フランスに本部を置き、世界中で活動しているカトリック修道会ラ・サール会が運営する学校である。井上さんは同じ修道会が運営する、仙台の孤児院で高校までを過ごしている。その縁で井上さんは鹿児島ラ・サール高校の同窓会総会に講演にきてくれたこともある。調べたことはないが、井上さんと私は、共通の修道士(ブラザー)にお世話になっていたかもしれない。
以下、フリー百科事典『ウィキペディア』の井上ひさしの項から引用する。
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井上靖と競った文学青年を父として山形県東置賜郡小松町(現川西町)に生まれる。5歳で父と死別し、義父から虐待を受ける。その後、義父に有り金を持ち逃げされ生活苦のため母はカトリック修道会ラ・サール会の孤児院(現在の児童擁護施設)『光が丘天使園』にひさしを預ける。そこでは修道士たちが児童に対して献身的な態度で接していた。カナダから修道服の修理用に送られた羅紗もまず子供たちの通学服に回し、自分はぼろぼろの修道服に甘んじ毎日額に汗して子供たちに食べさせる野菜などを栽培していた。このような修道士たちの生きざまは入所児童を感動させ、洗礼を受ける児童が続出した。ひさしもその一人(洗礼名:マリア・ヨゼフ)。高校は仙台第一高等学校へ進み孤児院から通学、在校中の思い出を半自伝的小説『青葉繁れる』に記している。また在校中は新聞部に所属し、1学年上級生には俳優の菅原文太がいた。 (以下省略)
(『光が丘天使園』に預けられた時のいきさつについて------井上さん自身が『ボローニャ紀行』の中で触れているいきさつは、上の記述とはいささか異なるものである。)
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満75歳没。高校卒業後も波静かな日々ではなかったようである。逆境を乗り越え、波乱多き人生を生き抜かれた先輩のご冥福をお祈り申し上げます。